敗戦後にシベリアなどに抑留、強制労働に従事させられた捕虜
ヤルタ密約を受けソ連参戦
1941年に日本とソビエト連邦との間で日ソ中立条約が結ばれた。しかし、日本の敗戦が確実となりドイツが降伏
した直前の1945年4月、日ソ中立条約の破棄を宣言した。しかし、破棄しても、その期限は1946年4月なので、
日本は米英との和平工作を信頼していたソ連に依頼していた。いま考えてみても、当時の甘い、無知な日本軍事
政府の態度は到底理解できない。米英ソの参加したヤルタ密約を受けて、1945年8月8日、ソ連軍はに突如、
日本に宣戦を布告、ソ連軍は8月9日に戦闘を開始し、南樺太、千島列島に侵攻した。軍隊は日本が聯合国に
降伏した8月15日以降も侵攻を続け、一週間ほどで千島列島全域を無血占領し、9月2日にやっと戦闘を中止した
と言われる。その後も日本固有の南千島の占領を続けたまま、千島全島をソ連(今のロシア)に編入し、自国の
領土としている。
国後島は北海道の北、千島列島南部に位置する
Source: Reuters (2007)/Kyodo and NHK broadcast Feberuary 13, 2011
In Japan, August 14 is considered to be the day that the Pacific War ended,
and Imperial Japan actually surrendered on
August 15. This day became known in the English-speaking countries as"
Victory over Japan Day".
However, Russian Military force landed on the Etorofu Island, a part of
Hokkaido on August 28, despite the war had been ended,
and quickly occupied our Northern Islands of Japan for only nine days.
1945年8月15日の日本は連合国に降伏し、第二次大戦は終了した。しかし、ソビエト軍は9月5日と8月28日の期間中に
日本固有の北方領土を不法に占領した。
Japan claims that the islands are occupied illegally as the Soviet Union
during the period of August 28 and September 5, after Japan's surrender
on August 15, 1945.
(L)1945年8月28日にソビエト軍は上陸用舟艇で北方諸島に上陸、占領した
(R)北方領土にたなびくソビエト国旗
Source: NHK broadcast January 8, and February 13, 2011
1945年以前に北方領土には、17,000人の住民が住んでいたが、ソビエト軍によって強制退去されられた
Photo: NHK broadcast, Feberuary 13, 2011.
ヤルタ密約に疑念、英国秘密文書で判明
北方四島を含む、全千島列島の運命を決めたヤルタ秘密会議
米国に引き続き英国がヤルタ密約の有効性に懸念を示している。ヤルタ密約は軍事協定に過ぎず、国際法としての
根拠を持っていない。当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法にも違反している。米国は戦後、日本の
立場を支持し、ソ連の法的根拠を認めない姿勢を示してきた。米上院は1951年にサンフランシスコ講和条約を
批准承認する際、ソ連に有利となるヤルタ密約の項目を「含めない」との決議をし、アイゼンハワー政権も
1956年に「ヤルタ密約は無効」を発表。2005年には当時のブッシュ大統領は、ソ連邦から分離独立したバルト
三国のひとつ、ラトビアの首都リガで「ヤルタ会談は史上最大の過ちの一つ」と批判した。
シベリア抑留の詳細
ソ連により 日本軍捕虜らがシベリアへ移送隔離され長期にわたる奴隷的強制労働させられ55,000人以上の
死者をだした。このソ連による行為は武装解除した兵士への過程への復帰を保障したポツダム宣言に反する
行為で、1993年、エリツィン大統領は「非人道的行為」として謝罪の意を表した。
Japanese prisoners of war in the Soviet Union:
By the end of World War 2, there were from 560,000 to 760,000 Japanese
prisoners of war in the Soviet
Union and Mongolia, interned to work in labor camps. Of them, about 10%,
50,000-60,000 died, mostly
during the winter of 1945-1946.
シベリア抑留は武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリア、カザフ、
キルギス、ウズベクなどソ連各地、モンゴル人民共和国(モンゴル抑留)などソ連の衛星国へ労働力として連行され、
長期にわたる抑留生活、厳寒・飢え・感染症の蔓延る過酷な強制労働により多数の人的被害を生じた。男性の被害者が
多いが、女性も抑留されている。 ソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島
などの地域で抑留された日本人は約57万5000人に上る。厳寒環境下で満足な食事も与えられず、苛烈な労働を
強要させられたことにより、約5万8千人が死亡、その多くが初年目の冬に集中している。但しアメリカの研究者
ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人
の日本人が死亡したという。 このソ連の行為は、「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言に
反するものである。
ソ連の継承国であるロシア連邦のエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」と
して謝罪の意を表した。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、
戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている。 シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、
ソ連政府は1958年12月に「日本人の送還問題は既に完了したと考えている」と発言した。しかし、ソ連占領下の
南樺太で逮捕されるなどしてソ連崩壊後まで帰国が許されなかった民間人もおり、ソ連政府は日本政府による安否
確認や帰国の意向調査を妨害し続けた。
舞鶴港に上陸する、抑留からの帰還兵(1946年) Picture source: Wikipedia
Repatriated Japanese soldiers returning from Siberia wait to disembark
from a ship at Maizuru, Kyoto Prefecture, Japan, in 1946
After World War II there were from 560,000 to 760,000 Japanese personnel in the Soviet Union and
Mongolia interned to work in labor camps as a prisoner of war. Of them,
it is estimated that between
60,000 and 347,000 died in captivity. The majority of the approximately
3.5 million Japanese armed
forces outside Japan were disarmed by the United States and Kuomintang China and repatriated in 1946.
Western Allies had taken 35,000 Japanese prisoners between December 1941
and 15 August 1945, i.e.,
before the Japanese capitulation. The Soviet Union held the Japanese prisoner
of war in a much longer
time period and used them as a labor force. Soviet Union behavior was contrary to the Soviet. Japanese
Neutrality Pact from the beginning[citation needed, and also to the Potsdam Declaration, which guaran-
teed the return of surrendered Japanese soldiers to Japan. When Russian
President Boris Yeltsin arrived
in Japan in October 1993, he apologized for being an "inhumane act."
However, the Russian side said,
"The transferred Japanese soldiers are" prisoners of war "who were legally detained during the battle
and do not fall into the category of" detainees "who were unfairly
detained after the end of the war.
敗戦後にシベリアなどに抑留、強制労働に従事させられた捕虜
2024年2月記述 医学博士 宮本順伯
引用:ウイキペディア
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The article was written in February 2024.
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