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第二次世界大戦
その歴史と終末
画像引用:NHK 戦争を伝えるミュージアム
太平洋戦争開戦のちょうど10年前、日本軍は中国の東北部を占領し(満州事変)、その影響下のもと満州国を
建国する。その後、中国側とたびたび武力衝突が起こり、1937年ついに中国との全面戦争へと発展した。
こうした日本の動きに反対したのが、アメリカやイギリスです。両国は中国の国民政府に武器を供与するなどの
支援を行い、日本軍の戦死者は次第に増えて行った。日本政府や日本軍は、日中戦争(当時の呼び方は支那事変)
が解決しないのは、中国を支えるアメリカ・イギリスのせいだと考えるようになる。
その後、世界情勢が急変する中、事態はいっそう深刻化していきます。1939年、ヒトラー率いるドイツと、
イギリス・フランスとの間で戦争が始まる(第二次世界大戦)。日本はドイツ・イタリアと同盟を結び、
東南アジアの資源を確保するためフランス領インドシナ北部(現在のベトナム)に軍を進めました。
この日独伊三国同盟と相まって、イギリス・アメリカとの対立は決定的となって行く。
シンガポール市内を行進する日本軍ー 画像引用 Wikipedia
シンガポールは日本軍支配時には[昭南島]と呼ばれていた
その後さらに日本がフランス領インドシナの南部にまで軍を進めると、アメリカは態度を硬化させる。
日本に対しフランス領インドシナ、そして中国からの軍の撤退を強く要求し、石油やくず鉄の輸出を禁じる
経済制裁を発動する。当時、石油の7割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとっては、大変な
衝撃であった。経済的な打撃と同時に、艦隊や軍用機が動かせなくなるため軍事的にも大きな打撃を受ける
ことになるからだ。
海軍の作戦計画を担う軍令部のトップは、このまま石油がなくなれば艦隊を動かせなくなるとして
「むしろこの際、打って出るのほかなし」と昭和天皇に伝えました。また、日中戦争では十数万の死者が出て
いたことから、東條英機陸軍大臣(開戦時は総理大臣)は、「米国の主張にそのまま服したら支那事変の
成果を壊滅するものだ」と、アメリカが求める中国からの撤兵に反対した。
日本とアメリカは外交交渉を続けていたが、1941年11月、アメリカからさらに厳しい要求が出されると、
日本側は交渉妥結の見込みはないと判断して、アメリカに勝利するという裏付けの全くないまま、
国力、物流面では大きな差があることを無視して、最終的に開戦を決定した。
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マレー半島上陸と真珠湾攻撃によって戦争を始めた日本軍は、石油を産出するオランダ領東インド
(現在のインドネシア)を占領するなどして、“自給自足”の体制をつくり、アメリカ・イギリスに対抗
しようとし、日本は次に「大東亜共栄圏」の建設を掲げました。
(左) 列強植民地 (右) 大東亜共栄圏 画像引用 まなれきどっとこむ
戦争を始めた日本でしたが、問題はアメリカ・イギリスの二大大国と戦って勝てるという明確な
見通しをもっていなかった。昭和天皇に「絶対に勝てるか」と問われた海軍軍令部のトップは
「絶対とは申しかねます」と返答していたとの記録がある。多くの指導者たちは、日本軍が優勢を
保っている間に、ドイツがイギリスに勝利すれば、有利な条件で講和できるだろう、と考えていた。
実際には、日本が戦争を始めたことにより、欧州の戦争を見守っていたアメリカは、全面的に
ヨーロッパ戦線にも参戦することになる。1941年6月に始まっていたドイツとソビエト連邦の
戦争でも、厳寒の冬にソビエトが攻勢に転じるなど、日本のもくろみは次々と崩れて行く。そして、
日中戦争も含めて、最終的には死者は310万人以上に達してしまうことになる。
1940年に調印した「日独伊三国同盟」のイタリアは1943年に降伏し、1945年5月にドイツも降伏した
時点で枢軸国の日本が 勝つ可能性は完全に消滅したにも拘わらず、国民一人一人が竹やりで銃を持っ
敵に立ち向かう[本土決戦]を掲げ、自爆特攻隊攻撃を続け、更に多くの人命を失う。
NHKなどの報道によると、昭和天皇の側近の一人、木戸 幸一侯爵は、戦前、東條英機を内閣総理大臣に
推薦するなどの役割を担ったが、1945年6月に、内閣重臣たちを説得し、御前懇談会で終戦の方針が
決定していた。木戸幸一は、戦後にはGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判に
おいて終身刑のA級戦犯となったが、後に仮釈放されている。
終戦2ヵ月前に、木戸大臣に終戦工作を助言した人物として注目されているのが、欧米留学経験が
あり、戦後東大総長とななった南原繁である。南原はアメリカと直接交渉、昭和天皇の「聖断」、
詔書による終戦を構想していた。しかし、東条英機以下軍部の狂気は収まらず、降伏を拒否し、不可侵
条約を締結していたソ連を介した和平に望みをかけていた。その結果は、南下政策(南方への領土拡張)
を国策とするソ連の参戦を招き、広島、長崎への原爆投下の後に終戦を迎えている。米国は占領して
いた沖縄などを日本に返還したが、80年近く経過した今なお、南千島の北方領土を占領され、ソ連を
引き継いだロシアは、その地を自国の領土に編入している。
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1945年8月15日、敗戦を知らせる昭和天皇の玉音放送[再生するには画像をクリック]
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ベストセラー「昭和史」、昭和20年8月15日の玉音放送に至る24時間を綿密な取材で再現した「日本のいちばん長い日」などの作品で
知られていた作家、半藤一利氏が2021年1月に逝去した。享年90。「なんでこんなに無残な戦争をやって日本中を焼野原にして全面
降伏ということになったのか、どう考えても分からない」と述べていたことが報道された。しかも戦況悪化の時に降伏していれば、
多くの日本国民や対戦国の人々の命を救い、日本固有の国土も失わないで済んだことを考えると本当に残念でたまらない。
考えを一つにする半藤氏のご冥福を心からお祈りしたい。
Junhaku Miyamoto, M.D.,PhD: January 13, 2021
戦争犯罪者と戦争犠牲者とを合祀している靖国神社
戦犯7人の遺灰は海へ
マッカーサーの戦後の日本統治5年8カ月
MacArthur set Japan's course after the war
北方四島はソ連(ロシア)が不当占拠した日本固有の領土
日中戦争から第二次世界大戦へ、そして日本の敗北へ
2024年8月執筆 再編集 医学博士 宮本順伯
記事引用:NHK war museum 他
The article was written in August 2024.
Copyright(C) 2024 Junhaku Miyamoto, All rights reserved.
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