第二次世界大戦 戦争終結後の日本を造り上げた3人の首相
GHQと渡り合った占領下のワンマン宰相で、サンフランシスコ講和会議で日本の独立を回復させた吉田茂。
戦犯容疑者から解放され、首相の座につき、日米安保条約の改定反対の声が上がるなか推し進めた岸信介。
裸一貫から首相に上りつめ「日本列島改造論」を掲げて日本全土に狂乱ブームをもたらした田中角栄。
個性あふれた3人は、時に敵対し、時に手を結びながら、戦後の日本を形づくった。膨大な映像でたどる、
3人の政治家の軌跡をNHK制作の映像記録を基に改めて振り返った。
●吉田茂:ワンマン政治体制で戦後の日本を統治
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B29爆撃機により焦土化した本土。そこにとバラック小屋を建てて生活を始める人々
敗戦直後の東京の地に立った。私の生まれた本郷の地の焼け野原跡には、トウモロコシが植えられ野菜畑となっていた。
上野にかろうじて建つ友人の掘っ建て小屋の隅で一晩過ごした。そこには戦前の日本では到底、想像だに出来ない
侘しい、悲しい光景が広がっていた。
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(L)1906年、吉田茂 外務省入局(M)1931イタリア大使としてムッソリーニと会見(R)1937年にイギリス大使
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(L)戦後、吉田茂、66歳の時に外務大臣に就任(R)吉田健三の養子となった吉田茂は11歳の時に膨大な財産と大磯の豪邸を継承
就任した時の吉田茂大臣は66歳。年を取りすぎていたし、古き良き日本を理想とする吉田では、戦後の新たな国づくりは
無理だと思われていた。 しかし、吉田が行動の指針としたのが、終戦時の首相、鈴木貫太郎から授かった言葉でした。
「戦争というものは勝った後の始末が大切だが、敗れた時は敗けっ振りがよくないといけない。」その言葉に感銘を受けた
吉田はマッカーサーに対し「言うべきことは言うが、心から協力する気持ちを持つ」よう振舞った。それはGHQの憲法
草案を受け入れた吉田の態度にも反映されている。
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(L) GHQ 連合国軍最高司令官総司令部は東京日比谷の第一生命本館に設けられた
(R) 戦争直後に瘍で大磯に引き込んだ結果、総理の座に就くことが出来た(笑い)
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マッカーサーは、占領統治をスムーズにするため政治的判断から昭和天皇の戦争責任を問わないことにした。現人神と
崇められていた天皇の罪を追及すると、占領軍に対し武装蜂起する動きなどで日本中に大きな混乱が引き起こされる。
それ故、新憲法では天皇に象徴としての地位を与え、長年、日本に根ずいていた天皇制を柱とした。
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(L) 1946年5月 第一次吉田内閣発足 (R) 第45, 48-51代首相
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(L) 私の自由主義、軍部に対する反感が証明されましてね (M)マッカーサーが安心して使ったのだろうと思いますがね (R)1948年10月 第二次吉田内閣発足
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1950年6月 朝鮮戦争勃発
朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮を支援する中国人民義勇軍が参戦。北朝鮮が38度線を越え韓国に侵入、マッカーサー
は北朝鮮と戦う国連軍の司令官に任命された。その中心は日本に駐留していたアメリカ軍であった、その後の
治安の空白を埋めるためにマッカーサーは吉田首相に警察予備隊の創設を要請した。吉田首相は1951年に
米国から派遣されたダラス特使の再軍備提示に対し、既存の警察予備隊を示し、新たに5万人の保安隊を設けると
答えている。
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(L)1951年1月 大統領特使 John Foster Dulles 来日(M)再軍備やれというんですよ(R)私は冗談言うなと言ったんです
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(L)再軍備など洒落たことを言っても通用しない(M)マッカーサーの指示で警察予備隊を創設していた(R)保安隊を設けると答える
朝鮮特需は、朝鮮戦争に伴い、在朝鮮アメリカ軍、在日アメリカ軍から日本に発注された物資やサービス需要を指す。
また、在日国連軍や外国関係機関による間接特需も存在する。特需の総額は停戦が実現した1953年までに24億ドル、
1955年までの累計は36億ドルに達した。特需は疲弊していた戦後の日本経済に活力をもたらした。
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真珠湾攻撃から9年9カ月、52か国が集まり、1951年9月にサンフランシスコ平和条約が終結された
吉田茂の名言には、リーダーとしての考え方や信念が凝縮されています。「戦争のない日本を次世代に残さねばならぬ」
と、戦後の日本が再び戦争に巻き込まれることなく、平和な社会を築いていくべきだという強い意志を表しています。
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日本のデモクラシーは出発後日が浅く、大部分の民衆はその真意を理解していない
吉田茂は自身の邸宅を海外の賓客を迎えるための迎賓館として改築し、世界各国からの賓客を多く受け入れました。
1967年7月 肺炎により死去 享年89歳
・・国葬が実施された
●岸信介:刑務所から回帰して米国との安全保障条約を成立させる
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(L) 岸信介 1933年農商務大臣官房文書課長 (M)1939年 満洲国国務院高官 (R)1941年 東条内閣商工大臣
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(L)MPと岸信介 (M)刑務所の鉄扉のガチャーンという閉まる音が岸を悩ませた(R)大森収容所での岸信介 その時 岸 48歳
1948年の12月23日、東條ら7人のA級戦犯者の絞首刑が執行された。その約30時間後に3人の男が巣鴨拘置所から
釈放された。A級戦犯容疑者だった三人とは、後々の船舶振興会・日本財団の会長笹川良一、右翼を糾合し鳩山一郎
などの大物政治家に政治資金を提供した児玉 誉士夫と、8年後に首相の座に就く岸信介である。
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1957年、第一次岸内閣樹立-1960年に渡米した岸信介首相率いる全権委任団はホワイトハウスで旧安保条約に代わる新安保条約に調印し、
より対等な同盟関係へと移行
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しかし、日米安保条約の改定問題を巡って混乱が続いた。5月の 衆議院での強行採決をきっかけに反対運動は一段と盛り上がり、6月に全学連は国会
構内になだれ込むなど警官隊と激しく衝突
1960年1月に渡米した岸信介首相率いる全権委任団は旧安保条約に代わる新安保条約に調印した。アイゼンハワー
大統領の訪日が予定されていた同年6月19日までに条約を批准したい岸首相の意向の下、衆議院の優越を利用した
自然承認が成立し衆議院本会議で条約が承認された。強行策は安保闘争の活発化を招く結果となり、条約反対運動は
次第に激化し、アイゼンハワー大統領の訪日は中止された。批准書交換が行われて条約が発効した6月23日、岸総理は
退陣を表明した。辞意表明後の7月14日、後継首班に池田勇人が指名された直後の祝賀会で、岸は暴漢にナイフで
刺されて重傷を負う。岸信介 1987年8月、90歳にて死亡
● 田中角栄:裸一貫から首相に上りつめ「日本列島改造論」を掲げて日本全土に狂乱ブーム
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(L)田中角栄 1918年、新潟県出生(M)1943年、田中土建工業設立(R)1945年 ソ連軍朝鮮侵入・朝鮮脱失
1945年2月、理化学興業の工場を韓国のテジョンに移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。同年8月9日のソ連対日参戦で
状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡す。
敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げる。幸い、田中土建工業は戦災を免れていた。
落選した選挙期間中に「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めたら、佐渡まで陸続きになる」
という演説をした。
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三国峠の電線ケーブル敷設工事
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(L)1957年、田中角栄 39歳で郵政大臣(M)テレビ塔は電波塔で高度規制外、普通の建物ではない(R)日本はアメリカに次いで2番目のテレビ国
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(L)1953年、ガソリン税を道路特定財源に (M)土地投機ブーム (R)過熱する歳末景気
1049年に再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。
田中が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだ。その主なものとして建築士法や公営住宅法などがある。
公営住宅法では、池田勇人蔵相に増額を説得し、後に日本住宅公団が設立された。また道路法の全面改正に取り組み、
改正法案が1952年に成立した。道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた。1953年には、
道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定
財源とすることを可能にした。
池田勇人内閣と佐藤栄作内閣の下で田中角栄は、大蔵大臣、通産大臣、自民党政調会長、幹事長を歴任し、日本の
高度経済成長を支えた。
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(L) 1972年7月 54歳で自民党総裁に (M) 田中角栄内閣 首相就任 (R)1972年6月「日本列島改造論」出版
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目白の大邸宅は陳情の山
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(L)1972年9月、日中国交正常化 周恩来と田中角栄 (M) 毛沢東と田中角栄 (R) 万里の長城、百聞は一見にしかずだ、これは相当なものだな
1972年9月25日に、田中角栄が現職の内閣総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で
出迎えの国務院総理の周恩来と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と
中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、日中国交正常化した。
1974年、田中角栄首相が辞任
1976年2月には航空機売り込みの際に贈収賄があったとされるロッキード事件が発覚。田中角栄は同年7月に
ロッキード社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の
容疑により逮捕される。1995年2月に、最高裁判所で田中角栄の有罪判決が確定。
司法は首相秘書の最終審判決という形で田中の5億円収受を認定した。
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(L)目白台の豪邸 (R)2024年1月、火災で全焼
1985年2月、田中角栄 脳梗塞で倒れる:1993年12月、肺炎により75歳で死亡
第二次世界大戦その歴史と終末
マッカーサーの戦後の日本統治5年8カ月
戦犯7人の遺灰は海へ
靖国神社分祀
北方四島はソ連(ロシア)が不当占拠した日本固有の領土
第二次世界大戦 戦争終結後の日本を造り上げた3人の首相
2025年1月執筆 医学博士 宮本順伯
記事写真引用:NHK、Wikipedia 他
写真説明および記事は放送内容を基に独自に再編集
The article was written in January 2025.
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