ムースニーと聞いても、ああ、あそこかと連想される方はいらしゃらないだろう。それもその筈で、
ムースニーはカナダの北極海に面した小さな町にすぎない。カナダの地図をご覧になればお分かりに
なると思うが、北から海が入り込んだ部分がある。これがハドソン湾で、ムースニーが北極海交易の
重要な地位を占めていた時代もあった。今でも、だだ一つの雑貨食料店の看板に、ハドソンベイ・
コンパニーの名を見ることができる。人口250人のこの町は、カナダ全土に網羅されている道路網
からも完全に分離されていて、300キロにわって敷かれた鉄道が唯一の地上交通手段である。
私は休暇でなく、仕事で、ここに滞在した。ムースなる地名が示すように、以前はたくさんのへら鹿が
生息していたのであろうが、今でも、そうであるのかどうかは定かではない。当時、といっても1974年
のことであったが、私はカナダのウエスタン・オンタリオ大学付属病院で診療に従事していた。大学
病院はオンタリオ州のロンドンという学園都市にあるが、カナダの4大医療センターの一つであり、
高度の医療水準を保っていたように思う。
「カナダのロンドンに住んでおりました」と言うと、英国の間違いではないかと、いぶかる向きもある
ようだが、これでもれっきとしたカナダ十大都市の一つである。カナダや米国は移民の国で、故国を
懐かしんで、新しく造った町に母国、ヨーロッパと全く同じ名をつけることは決して珍しくない。
ロンドンの町の春と秋は、極めて短い。5月になると、広々とした住宅の芝生に、たんぽぽの花が
黄色のモザイク模様を描き、桃や八重桜の花が、一斉に、濃淡のピンク色に咲き乱れるさまは壮観で
ある。夏・・・長い夏の夕暮れどきは、とてもさわやかで気持ちがいい。10月に入ると、フォレスト・
シテイの別名の如く、街全体を覆う大木が深紅や、深みのある黄色の紅葉に彩られ、やがて落ち葉は
次々と重なって、大地に厚いじゅうたんを敷き詰めて行く。
ここは北国ゆえに、冬は長く、厳しい。町の中央を流れる川の冬景色は、信州山麓の川沿いの風景を
思い浮かべる。純白の雪と樹木と水の流れの美しさに、心が洗われる思いだ。イギリスからの移住者は、
故国を回想し、この川を英国の首都と同じく、テームス・リバーと名付けている。
この町、ロンドンで、ガレージと庭園付き、3ベットルームの家を割安に借りることができた。
セントラル・ヒーテング、大型洗濯機、乾燥機、冷蔵庫が置かれ、暖房費、給湯料、水道代、電気代
などは家主負担で、1ヶ月、275ドル(当時の為替レートで82,500円)であった。
大学まで車で数分、歩いても15分で行ける、この家に引っ越してから6ヶ月もたたないうちに、
傘下の病院への出向を言い渡された。病院の医師スタッフは一度は行かねばならない決まりなので、
快く引き受けた。そこがムースニーの病院である。
実のところ、日本からカナダの地を踏んだのは、歳の暮れで、寒さも厳しく、強い吹雪のため、
バンクーバーからの飛行機がトロントに着陸できず、モントリオールに1泊せねばならない羽目に
あった。翌朝、抜けるような青空の広がる空港からトロント空港へ、更に飛行機を乗り継いで、
横降りの吹雪の中に霞むロンドンの小空港に着陸したのだが、その時の私には、何か地の果てに
来たような悔悟の念さえあった。
そのロンドンを更に北へ、北極海に面する秘境まで医療を施しに行くことに一抹の不安がないわけ
でもなかった。しかし、家族の往復運賃を含め、費用はすべて病院側の負担だし、一戸建ての住宅も
無料で提供されるし、出張手当も加算されるのだから、考えようによっては願ってもない話である。
ただ、そこに行くには、汽車を2回乗り継ぎ、30時間ほどかけねばならなかった。
1月3日の正午過ぎに、列車でトロントに向かう。カナダでの初めての汽車旅行である。車内は大きく、
広く、しかもガラガラである。車内から展望すると、いつも見慣れている街が違って見える。
いくつかの小さな町を経て、工業都市ハミルトンを過ぎるとトロントだ。夕暮れ迫るターミナルで、
北行の夜行寝台に乗り換える。
洗面台、トイレ、寝台などの設備は良い。しかし、何分にも古い。列車は夕闇の中を、きしみながら
走り出した。なにしろ、すごい揺れである。カ−ブのところでは、円の外側に放り出されるのではない
かとさえ感じる激しいゆれが繰り返された。線路の保守が十分出来ていないところでスピードを出す。
その結果、線路の上でなく枕木の上をじかに走っているのか、と錯覚することさえあった。一晩中、
脱線の恐怖に怯えながら、疲れからか、うとうとと眠り込んでしまった。
急ブレーキで寝台からはみ出しそうになり、目を覚ます。黒人の車掌が「間もなく乗り換えです」と
知らせに来た。外は朝日を浴びて銀世界がまぶしい。本当に何もない。白雪の平原が続く。乗り換え
前に、食堂車でとった朝食は予想外においしく、それは、また楽しいひとときであった。
乗り換え地点、コカクレーンには2時間遅れで到着する。車両出口の扉に雪が吹き込み、かちかちに
氷ついてしまったので、外に出られない。内や外から踏んだり蹴っりして、やっと脱出する。外の寒さは
相当なものだ。睫毛や頬は堅く凍りついてしまう。
北極海に向かうと意味であろうか、ポラール・エクスプレスという列車に乗り継ぐ。森、森、森、そして
雪、雪、雪の単調な景色が絶え間なく続く。1時間か、2時間おきにインデアン部落の停車場に着く。
駅と言わないのは、そこに何もないからだ。ホームは勿論、そこに列車が止まる目印らしいものさえ
見あたらない。列車が止まるや否や、数人のインデアンたちがビールを買いに乗り込んで来た。つまり、
食堂車が、ただ一つのアルコールの入手場所なのだ。
Map source: Moose Cree First Nation
ポラール・エクスプレスは3時間ほど遅れて、午後6時ころ、終着駅ムースニーに到着した。駅前だと
いうのに、あたりは真っ暗である。その闇の中に、いくつかのどよめきが起こる。雪上車、スノーモビル
の動きが急に活発になった。
目指す病院は川向こうのムースファクトリー島にある。ほとんど何も見えない暗闇の中、
「ムースファクトリー・ホスピタル」と大声で叫びつつ、赤塗りの共同タクシーを探し当てた。
タクシーとは言うものの、雪上車である。護送車との表現がぴったりの乗り物で、本当のところ、
見知らぬイヌエット(以前はエスキモーと呼んでいた)共に、どこに連れて行かれるのか、最後まで
不安であった。
車はツンドラ地帯を全速力で走り始めた。あとで分かったことだが、川が厚さ2メートルもの氷に
覆われていて、格好のスピ−ドレース場のようになっていたのだ。10分ほどで病院玄関に到着した。
そして、この北の最果ての地の病院に入って感激したことは、病院入口に、『 産婦人科担当医師・
ドクター・ミヤモト 』[英文で表示]と、既に表示されているではないか。しかも、一人の患者が
私の到着を待っていた。早速、診察して入院させる。
翌日、宿舎となっていた家を出て、向かいの病院に出勤する。病院の病床数は100床くらいであろうか、
意外に大きい。病棟では、北欧系と思われる美人看護婦が、にこやかに出迎えてくれ、彼女から病棟の
状況の説明を受ける。
外来、入院、いずれも忙しくない。出勤時間も、帰宅時間も全く自由である。だが、1日24時間、
週7日間、毎日が宿直である。・・・と言っても、今どこにいる、と所在を知らせておけばよい。
しかし、暇なようでも、大学病院で経験した数倍もの鉗子分娩や帝王切開を行った。病院では、いつも
円滑に事が進められていたわけではない。外科医が欠員であったこともあり、外科や泌尿器科の患者の
病棟回診や、膀胱鏡検査、虫垂炎の手術までも、やらざるを得なかった。重症の凍傷に罹った患者も
入院していたが、なにぶんにも、治療経験がなく、看護婦に聞きながら行う始末である。
患者の90%はイヌエットとインデアンで、10%が白人であった。イヌエットの患者は、非常に穏やか
で、気持ちがいい。いつも白人医師ばかりなのに、自分の仲間が来てくれたと感じたのかもしれない。
あるイヌエットの患者に村の様子を教わり、訪ねてみることにした。イヌエットの村のあちこちには、
質素な家が点在していた。深い雪に覆われているので、夏はどのような景色に変わるか、想像し難い。
日はさんさんと輝いているが、非常に寒い。零下20度はざらで、零下40度にまで下がることもある。
これだけ温度が下がると、寒いと言うよりは、痛いという表現が適切であろう。体は防寒コートに
覆われているのでいいが、顔はどうしても極低温にさらされることになる。少しの油断が凍傷を招く。
こうした環境では、のんびり散策を楽しむようなムードとはほど遠い。この地に住むイヌエット達は、
よくスノーモービルを使用していたが、昔ながらの犬ぞりは激減しているようだ。しかし、スノー
モービルで遠出し、エンジン故障のため、命を落とすケースもあると聞かされた。
北極圏での見ものは、やはりオーロラであろう。オーロラはフィンランド語で狐火を意味するが、
北極海を囲んでドーナツ状に現れる。かねがね病院のスタッフに、オーロラが現れたら知らせてくれる
ように頼んでおいた。それから幾日もたたないある夜、「オーロラが出ている」との知らせを受けた。
急いで屋外に出て林の方に走った。
そこに見えたものは、テレビの画面では到底想像も出来ない不気味な光景であった。正に、天その
ものが降ってきて、地面を押しつぶしてしまうような恐怖さえも感じた。古代の人々が、オーロラを
見て、この世の破滅が近づくのを恐れたと伝えられるが、蒼白色の影が、天空に自在変化する様は、
とてもこの世のものとは思えなかった。
極寒の地方では、ダイヤモンド・ダスト現象によく遭遇する。降り積もった雪が、すべての物音を
消し去り、静寂そのものの、時間の静止したような夜の街を歩いていると、きらきらと、あたり
一面にダイヤモンドの粉を浮遊させたような、微細な氷粉が飛び交うを見ることができる。空気中
の水蒸気が結氷して引き起こされる現象だが、無数のきらめきの舞いのなかに自分が包まれる時、
それは幻想の世界そのものである。
ムースニーの町にやっと慣れかけた頃、北極海沿岸を更に北へ進む辺地診療に加わることになった。
総勢は、私を含めて、医師3人で、医療器材、薬品を小型飛行機に積み込んで出発する。
空から見渡すと、森林と雪原とがどこまでも広がっている。果たして、どのような村が、われわれを
迎えてくれるのであろうか、期待に胸をふくらませる。
1時間くらい飛んだであろうか。飛行機は一つの集落のまわりを大きく旋回すると、診療所脇の滑走路
に着陸した。それは冬のみ使用できる天然の滑走路だった。つまり、川が厚く結氷したものだ。
どつと人々が集まって来た。女や子供、それを数十匹もの犬が追う。あるものはスノーモビルに
またがってやって来る。真っ白な平原に、鮮やかな、いくつものカラーの糸が走り、それが一つに
合わさって、モザイクとなった。そして、そこにある、すべての視線が徐走している飛行機に集まった。
この世に、このような美しい、生き生きとした情景があるだろうか。タラップを降りる1秒、1秒の
あの感動を今も忘れることは出来ない。
クリニックでの診療後、昼食をご馳走になり、のんびり休息をとった。しかし、この間にハプニングが
起こった。他の医師は私が、ここの診療所に留まると錯覚して、私を残して犬ぞりで出発してしまった
のだ。呼び止めようにも連絡しようがない。急遽の策として、主任看護婦は、無線で近くを飛んでいる
飛行機を呼び出し、私を送り届けてくれるように頼んだ。
やって来た飛行機は、本当に小さかった。パイロットと荷物以外のスペースはほとんど無かった。
私は直接床に座り、荷物の間の僅かな隙間にちじこまって下界を眺めていた。犬ぞりが、大雪原に
一筋の線を描いていたが、間もなく視界から消え去った。日も沈みかけた頃、目標の集落に着陸した。
ここも結氷した川の上だ。多くの人が出迎えてくれたが、私が医師だと分かると「あそこがクリニック
です」と緑色の建物を指して教えた。
ここは30軒くらいの家が、診療所と教会とを中心に、川を挟んで広がっていた。クリニックの廊下
には、各住居の配置図と共に住人の名前が表示されていて、一目でその部落全体の様子が分かる。
先生が着いたと知れわたると、たくさんの患者が集まって来た。診療時間は、何時から何時までと
決まったものはなく、医師が居る限り、オープンである。
二人の看護婦が常駐していたが、われわれの到着を待ちわびていた様であった。しかし、辺地に
生活する彼女たちの目は、異性を意識しているように感じたが、私の思い過ごしであろうか。
夕食の後に早めに休んだが、同行した二人の医師は宿舎に戻ってこなかった。その夜、彼らは、昔の
エスキモーの風習に従ったかどうかは、知るすべもない。知り得たものは、最北の地に住む人々の
素朴な心であり、人情であった。この地に滞在したのは、僅か1ヶ月に過ぎなかったが、そこで
得た体験は本当に貴重で、得難いものであった。
帰路は、ムースニーからは飛行機を乗り継ぐルートをとった。最初の飛行機は小型機であり、内部は
狭く、天井も低いので、中央の通路を、かがんで歩かねばならなかった。乗り合わせたお客は、
知り合い同士なのか、家族的な雰囲気の中、伝わってくるプロベラの響きが心地よかった。
だが、この出張旅行がそのまま、スムースに完了したわけではなかった。ローカル空港で小型機から
エアー・カナダのジェット機に乗り換え、離陸後間もなくであったが、機体異常に振動し始めた。
「エンジン・トラブルのため緊急着陸します」とアナウンスあり。どうやら片方のエンジンがおかしい
らしい。「座席を前に倒し、眼鏡やペンをはずしてください」。機内に緊迫感が漂う。不安感いっぱい
の気持ちで、ただ、ひたすら雲だけの外を凝視する。「こんなところで朽ち果ててたまるものか」との
感慨が走る。ほんの数分だったのだろうが、数十分にも感じられた。空白の時間が過ぎた。下に樹木が
見え、やがて滑走路に滑り降りる。「ああ助かった」・・・・全身から力が抜け、安堵する。
この事故のため、接続便がなくなり、その日のうちにロンドンの自宅に帰ることが出来なくなった。
この時は、エアー・カナダ手配のヒルトンホテルに宿泊、翌朝、やっとロンドン空港にたどり着いた。
チェック・インした荷物は紛れてしまい、イギリスまで運ばれたのか、結局3週間も届かなかった。
おかげで帰宅後もシェイバーや着替えもなく、毎日、不自由な生活を強いられた。
そして、また、分刻みのスケジュールに縛られる、大学病院での忙しい日々が続いた。
・・・ 今から遠い遠い、50年ほど前の思い出である。
しかし、長い人生の中でで最も充実した1か月間であったことは間違いない。
宮本順伯 1974年 40歳の時の記録
北極海沿岸 Moose Factory Hospitalの思い出
執筆 2013年 2024年1月一部加筆修正 医学博士 宮本順伯
写真及び本文の著作権は宮本順伯に帰属
The article was written in 2013, by Junhaku Miyamoto, M.D., Ph.D..
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Daily 1960-1963
Washington Hospital Center US Interstate Highway 1960- Cherry blossom festivals Indianapolis
Weekend travels East Coast trip New York express train New York auto-trip Mackinac Bridge
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London University Hospital Moosonee London life and Florida trip 1974 Return trip to Tokyo
Daily
2023:
90 年の人生を振り返った時、懐かしく思い出されるのは、若かりし頃の思い出である。
一見、常識を越えた発想があり、それを 実行するだけの活力があった。特に20歳代は、
見るものすべての感受性が豊かで積極的、高年の世代でのそれとは、とても比較できない。
国内で医師として毎日を、診療に明け暮れする生活を繰り返し、老後に引退するだけの
人生が、満足できるものかを問われた時、答えは見つからない。人生は一度だけのもの。
悔いのない一生でありたい。