カナダ大学病院勤務日記


1972年12月、成田からカナダ、バンクーバー向け出発した。東京でのクリニックを一時閉鎖しての
旅立ちであった。航空機内の乗客は少なく、検査技師の団体旅行の会話が時たま聞こえ、一時的に
しても、今回の決断が正しかったかどうか、来る大学病院勤務への不安と重なり、何か、もの悲しい
気持ちで一杯でした。大学医師としての資格に永住ビサが必要だったため、また、もしかしたら、
そのまま住居を移すことも考えていたので、永住可能のビサを取得しての入国でした。バンクーバー
の税関では移住者向け[カナダでの生活][楽しみが一杯の大きな国]などの日本語パンフレットの
他、英文の[Income Tax][Where to get help]などが手渡されました。

バンクーバーからオンタリオ州、ロンドン市へは、トロント空港経由で向いましが、猛吹雪に遭遇、
トロントに着陸出来ず、モントリオール空港に降り立ちました。航空会社の手配でここの市内で一泊、
からりと晴れ渡った翌朝、朝日を浴びて白銀に輝く空港でロンドンへ向け航空機に乗り込みました。
しかし、全く見知らぬ地、雪に埋もれた ローカル空港に降り立った時は、何か地の果てに着いたような、
一瞬、後悔の念が脳裏を横切りました。しかし、全く予想していなかったことに、空港出口には、大学
の Allen 教授の専属看護婦が待ち受けており、予め予約していたアパートの部屋まで車で連れて来て
もらい、本当に助かりました。翌日には、親切にも彼女は市内の百貨店に同行、寝具やシーツを買う
のを手伝ってくれました。アパートの最初の家賃はAllen教授に立て替えてもらっていましたが、その
分を支払おうとしても受け取らなかったので、本当に恐縮してしました。

なお、 Allen 教授の膣式子宮摘出術が極めて短時間で完結し、その技能は世界的に非常に高い評価を
得ていたこと、2023年には人と対談し、何と100歳の誕生日を祝う。

Professor Allen, Department of Obstetrics & Gynaecology to its preeminent position in Canada


一方、Plunkett教授夫妻の招待でダウンタウンのレストランで夕食を共にする機会にも恵まれました。
夫妻は、わざわざアパートまで迎えに来られ、レストランのホステスに私を紹介てくれました。どうやら
経営者の妻で、教授の患者であるようでした。店には創業当時のキャデラック車などが店に並べてあり、
店の照明は昔の工場を思わせるような、ユニークな雰囲気を造り出していました。帰路、教授の家に
立ち寄り、二人の息子を紹介されました。家は郊外の新興住宅地にあり、意外に、こじんまりしたもの
でした。教授夫妻には、今家族はどうしているか、クリニックはどうなっているのか、聞かれました。
私が、今まで私が一人[医師は一人の意味]でやって来たと答えると驚かれた様子でした。

今回、推薦状を書いていただいた Dr. Gold が私を高く評価していたことも話されました。どのくらい
のレジデント医師応募への申し込みの手紙がくるかとの質問には、年間 80-100 との答えでした。
非常に高い倍率で、大学病院に採用されるのは大変な事だと改めて認識しました。教授は[日本人は
何をやっても素晴らしい]と言い、オリンピックの体操、トヨタ、マツダ、ソニーなどの製品を賞賛して
いました。教授の家のテレビはソニー製だとのことです。夫人はアパートのことを心配され、地理に
不案内では困るだろうと、自分の常用していた市内地図をくださいました。教授は自分の車で私の賃貸
アパートまで送って下さり、本当に心暖かい人たちだと思いました。1922生-1997年没

筆者がカナダの病院で働き始めた、1970年代、日本の経済成長は著しく、1979年には社会学者による
[ジャパン・アズ・ナンバーワン]の本が出版されて、世界は工業製品を主とした日本の成長ぶりに
驚嘆していました。そうした背景が日本人の私を、実際以上に過大評価していたのかも知れません。


Images of London, Canada in winter: Source: Global News


翌朝、昨日の春のような天候とはうって変わって、寒風がぴゅうぴゆうと音を立てて吹きすさんで、
午前9時というのに、空はどんよりとうす暗く、北の果ての地に来てしまったかのように感じられました。
気温はマイナス16.1℃、こちらの住人に言わせると、これでも暖かいそうです。積雪量は思いの外少なく、
車道にはほとんど積もっていません。ただ歩道は固く凍り付いているので、ちょっとの油断で足を滑らせ
転んでしまいます。その後、段々、寒さにも慣れて来ましたが、やはり寒いのは困ります。

病院勤務は休みの日には気持ちを整理することが出来ましたが、午前7時45分から仕事が始まることも
多く、日によっては7時30分までの出勤となります。この時間帯ですと、あたりが真っ暗な道を歩いて
の通勤です。今考えると、厳寒の朝、凍り付いた滑りやすい道を小幅で歩いて通い、節目の40歳が間近に
迫る時に、私自身よく勤め上げたと思います。


「L」University Hospital at The University Western Ontario    「R」大学関連 Victoria Hospital, London, Ontario
1973年当時は5階建ての建物の高さまで樹木に覆われていたが、駐車場建設のため
全部伐採されてしまい当時の面影は全くない:いずれも2010年撮影


勤務状況は1960年代のワシントンの病院とは異なり、かなり戸惑うことが多かったのが実情です。使用して
いた薬品も米国のものとかなり異なりましたが、次第に慣れて参りました。手術室での消毒方法に関しても
少し違います。病院の諸設備は、いろいろの点で進んでいる所もありますが、あれから10年以上も経過して
いるので当然なのかも知れません。米国の病院ではnurse の数が比較的少なかったように記憶していますが、
ここカナダでは十二分の数が配置されています。米国の病院でよく見られていた黒人や外国人は、ほとんど
おりません。中国人医師は 3、4人いるようですが、米国で非常に多かったフィリピン人や南米からの医師は、
ほぼ皆無です。病院では毎週、学術検討会が、産婦人科部門では水曜、木曜の20時から22時まで、土曜日に
は朝の9時からあります。毎年1回、1月にカナダ全土で専門医の模擬試験が施行され、その結果は大学病院の
ランキングに直接繋がります。

産婦人科は外科系なので、外科、、泌尿器科での勤務が含まれますが、外科部門では毎日手術が入りますが、
泌尿器科では、月、水、金曜のみで、疲れても回復する時間はあります。産婦人科手術は、朝の9時から
午後3時まで、日によっては5時まで連続的に実施されるのですから、何といっても体力が必要、スタミナは
欠くことの出来ないものとなります。シカゴのフェロー時代には安楽に生活していたし、また、東京での
自己のクリニック開業時代のそれに比べ、過酷な重労働です。宿直は一日おきですのですが、呼び出される
ことは少ないので何とかこなしました。まあ一度は通過せねばならない仕事の道ですから、やむを得ないと
考えました。給与は1974年1月から、10,700カナダドルに値上げされ、生活する上でもプラスになりました。
当時の為替レートは、1カナダドル=275円だったので、日本円で月額、2,950,000円ほどとなります。

米国やカナダでは自家用車は必需品であり、通勤や買い物に欠かせないので、Plunkett教授と全く同じGM製の
Oldsmobileステーションワゴンを発注、購入しました。しかし、大きな新車を自動車ディーラーから自宅まで
運転して帰った時は、大型車の運転には慣れていなかったため、一瞬、距離感を失ってぶつかりそうになり、
緊張の連続だったとのメモが残されています。車は帰国時に北米大陸を横断、バンクーバー港から東京港へ
送りました。日本では、更に20年間近く使用し、北海道から九州まで全地域を旅するのに大変役立ちました。

留守番を頼まれた教授自宅


思いもかけない豪邸での生活体験もありました。自家用機も保持している大学病院の泌尿器教授の家の
留守番を、 Dr. Pakulis 医師
の紹介を受け、2週間ほど頼まれました。広々した家は何と22軒の家に
囲まれており、裏庭にはバーベキュー施設を備えた大きな温水プール、サウナ風呂があります。庭の
木立に囲まれた芝生にはテーブルが置かれ、外で食事出来るようにしてあります。屋内には、客用食堂と
自己用の食堂、応接室、リビングル−ム、書斎があり、2階には夫妻用の寝室、二つの子供部屋、二つの
トイレ、二つの浴室を備え、3階には予備の寝室、地下室にはボイラー室と洗濯室を配置し、台所は
全部電化され、食品くずを砕いて処理するディスポーザーも設置されています。短期間とは言え、
このような夢のような家で、素晴らしい夏の日々を過ごすことが出来ました。

ラトビア出身、Schulich School of Medicine and Dentistryを1969年に卒業、レジデント医師を経て
1975年から認定泌尿器科専門医に、2015年引退。私の大学病院勤務中に親身になって暖かく接してくれた


カナダでは、メディケアと呼ばれる『国民皆保険制度』を採用しており、医療上必要な検査、治療、手術、
出産、そして治療的妊娠中絶迄も、すべて無料です。 1961年にスタートした制度で、カナダ国民は自己
負担が全くなく、全額を公費で賄っています。永住権を持つ人も同じ扱いとなります。ただ、直接専門医に
かかることは出来ず、登録している家庭医の紹介があって初めて受診することが出来ます。なお、歯科
診療と薬剤費は公的保険でカバーされず、自己負担となる点などは日本と異なります。

通常の勤務以外で特筆すべき事柄もありました。1973年1月、米国最高裁判所は7対2でテキサス州の
(妊娠中絶を原則禁止とした)中絶法を違憲とする判決を下した当時、私の人工妊娠中絶に関する英文
論文
が世界中に出回っていた実績もあり、1973年7月に大学病院で40人ほどの大学教授、専門医医師ら
を前に講演する機会を得たことでした。産婦人科実地には妊婦検診、出産と妊娠中絶処置は欠かせない
分野でしたし、今もそうだと思います。1974年1月には1か月間の短期間でしたが、私の人生の中で
最も充実した医療体験として、北極海に面する ムースニーの中堅病院で、最高責任者としての辺地診療
を実施したことだと思います。

宮本順伯 1974年 記述
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Daily 1960-1963
Washington Hospital Center US Interstate Highway 1960-  Cherry blossom festivals Indianapolis Weekend travels
East Coast trip New York express train  New York auto-trip Mackinac Bridge Chicago life Chicago friends
Florida travel 1962 16,000km great trips throughout US and Canada Summer camp Denali National Park


Daily 1972-1974
London University Hospital  Moosonee London life and Florida trip 1974 Return trip to Tokyo

Daily

2023:
90 年の人生を振り返った時、懐かしく思い出されるのは、若かりし頃の思い出である。
一見、常識を越えた発想があり、それを 実行するだけの活力があった。特に20歳代は、
見るものすべての感受性が豊かで積極的、高年の世代でのそれとは、とても比較できない。
国内で医師として毎日を、診療に明け暮れする生活を繰り返し、老後に引退するだけの
人生が、満足できるものかを問われた時、答えは見つからない。人生は一度だけのもの。
悔いのない一生でありたい。





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