シカゴ日記 1961-1962 |
1961年6月30日夕刻、ワシントンの病院からシカゴの医療センターに移るため、荷物を自分の
車、プリモスに搭載して向かう。マリーランド州、ウエストバージニア州、ペンシルバニア州、
オハイオ州、インデイアナ州を経て、7月2日早朝にシカゴに着く。途中、2夜を寝袋に
くるまり休んだ。暗い空一杯に広がった星空を仰ぎ、虫の鳴く山中での夜は、なかなか味わい
難いものでした。引っ越し荷物は思っていたよりも多く、また重く、それでも後部座席と後ろ
のトランクに全部積み込むことが出来た。大型乗用車だったことが幸いしたが、アパラチア
山脈を越えた時は、いつもと違って速度が出ず、エンジンの温度がかなり上昇してしまう。
それでも、どうにか故障することもなく、山越えすることができた。しかし、この後、故障が
続出し、シカゴで、50ドルほどかけて車の修理を行った結果、非常に良い状態に戻すことが
出来た。
アパラチア山脈
シカゴへの途中のハイウェイは奇麗に舗装され、平原と牧場の間を縫ってどこまで続いていた。
寒村の家々の庭に植えられている草花が美しく咲き誇り、静かな山間の青い湖を包むように霧が
音もなく静かに流れていました。インデイアナ州に入るころ夕闇が迫ってきたので、その日のうちに
シカゴに行くのは無理と考え、牧場に囲まれた原っぱで一夜を過ごしました。ワシントンDCは
EST 東部 Eastern Standard Time でしたが、インデイアナ州に入ると中部 Central Standard Time
標準時間になったので、ここで時計を1時間遅らせました。
高速道路、シカゴスカイラインに入るとシカゴ市街はすぐそこです。時折、雨が降り出しましたが、
青く澄んだミシガン湖畔には、多数のヨットが係留されていました。目的地のマイケル・リーゼ・
ホスピタル・メディカルセンターに到着、Jay J Gold 教授★★「注」に挨拶後、確保しておいた
19階建てのアパートで荷物を降ろしました。私の部屋は17階の南側にあり、ミシガン湖畔に
立地しており、部屋からは病院と、そのすぐ向こうに湖が広がり、その沿岸を縫って走るパーク
ウエイが、そして高層アパート群が連なっていました。 家賃は月、91ドル、家具レンタル料は
15ドル★でした ( 現在の同規模の部屋の家賃は日本円で月60万円弱 )。しかし、冬にはスチーム
暖房で、外界の寒さが嘘のように快適に生活できました。
(L) Prairie Shores Apartments 17階からの眺望スケッチ (R) アパート入口に立つ筆者
左下の建物がMicheal Reese Hospital and Medical center、
右上に連なるのが: Prairie Shores Apartments Complex
厳寒のミシガン湖畔とアパート駐車場
しかし、シカゴの冬はとても厳しい。気温は零下10℃にまで低下、加えてミシガン湖を吹き抜けて来る北風が
肌に突き刺さる。地面は凍り付き、堅くシャクシャクと跳ね返る。その分だけ春の訪れが待ち遠しく感じられる。
春には市街北部の高級住宅地を訪れてみたが、とても素晴らしい。そして初夏になるとミシガン湖畔には多くの
人々が爽やかな空気の下、それぞれの時間を、それぞれの姿で過ごして行く。
ミシガン湖は北米5大湖の一つで、九州ほどの大きさがあり、大西洋から湖に沿って航行してきた日本からの
貨物船を含み、外洋航路の終着点でもあります。夜ともなると、白、青、赤と宝石をちりばめたように、光の
点と波とが交差し、今まで見たことのない宝石を散りばめたような、素晴らしい光景を醸し出します。花火の
打ち上げもあり、湖からのそよ風が部屋にも、ふんだんに入って来ます。
ミシガン湖畔とアパート駐車場夜景
シカゴはアメリカ第2の都市、中心部には高層建築を背景に、バッキンガム大噴水が公園中心部に位置し、野外
音楽堂には多くの観客で埋まり、ビルの屋上に輝くネオン、忙しそうに往来する人と車、そこにはニューヨーク
とは異なった、大味な、いかにもアメリカらしい都会との印象を与えています。ミシガン湖畔には、多数の浜辺、
公園、ヨットハーバーとが混在しています。中心部から北の地域は白人の富裕層の住居が多く、エバンストンの
地域を含め、立派な庭園と邸宅がどこまでも続いており、春、5月には木蓮の木々をはじめ、色とりどりの花で
埋め尽くされます。一方、西の地域には3,4階建ての古いレンガ造りのアパート群が建ち、南の地域は工業地帯と
黒人の居住地域となっています。
冷蔵庫の中身
シカゴには日本人経営の店もあり、ほとんどの品は手に入りますが、日本の値段の5倍もすることが少なくない。
キッコマン醤油の在庫は多いのですが、江戸みそなる品も置いてあり、但し書きに、[当店発売の白味噌は
弊店固有の技量と熟練せる技師によって研究製造したものにして風味は香気を有し、かっ入量も十分にして、
日本からの輸入品に比し、美味なることも申すに及ばず、経済を兼ねた最良品なり]とある。塩の原産地は、
ソルトレークシティで、案外良い味なのですが、これも高価です。米は日本人向けのものを販売しているとの
こと、東芝電気炊飯器で炊いてみたら、ねばりもあり、本当においしく、むさぼり食べました。オーブンは
宝の持ち腐れで使用していません。ガスは自動点火ですが、お茶を飲むためお湯を沸す程度です。浴槽は全陶器
製で大変気持ちよく入浴出来ます。使用している毛布は化繊の安物で5ドル、床の掃除用のモップとバケツは、
それぞれ3ドル、1ドルもしました。当時の大学卒初任給は13,000円、★為替レートは1ドル=360円でした
ので1か月分の給与はドルベースで、36.1ドルとなり、日本円に換算すると、かなり高額なものでした。
なお、新生活に関して、両親、姉夫妻などから多くの生活用品などを、日本からお送り頂いており、感謝の念で一杯、有難うございました
★★「注」Professor Jay J Gold はGynecologic Endocrinology などの著書で有名で、宮本順伯の尊敬する恩師である。
Jay J. Gold (Clinical Professor of Medicine and Adjunct Professor of Obstetrics and Gynecology) University of Illinois College
of Medicine, Chicago, USA
8-mm film-video taken in 1961 at Chicago
コダックが発売した極めて初期段階のカラー8ミリフイルムを使用。
1961年にシカゴ市の夏の湖岸の様子や、米国一を誇るシカゴ市の McCormick Placeでのコンベンションと水上ショーを撮影
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宮本順伯 1961年7月-1962年6月 20歳代後半記
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Daily 1960-1963
Washington Hospital Center US Interstate Highway 1960- Cherry blossom festivals Indianapolis Weekend travels
East coast trip New York express train New York auto-trip Mackinac Bridge Chicago life Chicago friends
Florida travel 1962 16,000km great trips throughout US and Canada Summer camp Denali National Park
Daily 1972-1974
London University Hospital Moosonee London life and Florida trip 1974 Return trip to Tokyo
Daily
2023:
90 年の人生を振り返った時、懐かしく思い出されるのは、若かりし頃の思い出である。
一見、常識を越えた発想があり、それを 実行するだけの活力があった。特に20歳代は、
見るものすべての感受性が豊かで積極的、高年の世代でのそれとは、とても比較できない。
国内で医師として毎日を、診療に明け暮れする生活を繰り返し、老後に引退するだけの
人生が、満足できるものかを問われた時、答えは見つからない。人生は一度だけのもの。
悔いのない一生でありたい。
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