渡米、病院日記 1960





1960年6月15日夕方、プレジデントクリーブランド号にて横浜を出発、初めての外国旅行の
スタートでした。日付変更線で6月20日を二日間たっぷり過ごしましたが、ちょっと奇妙な
感覚です。船上では毎日のように、映画上映、パーティー、ゲームが開催されて時のたつのを
忘れさせます。食事は和洋折衷で、好きなだけ食べられます。船の後尾には海鳥たちが群れを
なして飛び変わっています。6月22日朝、オアフ島、ホノルルに接岸しました。

青く澄んだ空の下、広々と連なる道路、ヤシの林に立つ家と家、ワイキキの砂浜には色とりどり
の水着の女性、夢のような一日を後に、山の上まで、ダイヤを散りばめたような夜の港を、サン
フランシスコ向け、船は離岸して行きました。




27日の朝、霧の立ち込めるサンフランシスコ湾に入り、金門橋を仰ぎ見て、その下を潜り抜ける
ときの、その瞬間の感動を今も忘れることが出来ません。税関はフルブライト研究生の資格故、
極めて簡単に終了し、ホテルビクトリアに宿をとりました。カメラを担いでサンフランシスコ
市中を散策、チャイナタウンでラーメンをすする。外国なのに、自国にいるようでもありました。
坂の多い街、旧式のケーブルカーが (市内電車) が急坂を上下していました。一方通行の道が多く、
高く聳え立つ堅牢な建物に、防空避難所 の標識があり、特異な感じを抱きました。物価は高く、
固定為替レートの設定 (1ドル360円) にもあるのでしょうが、物価は日本の3.5倍以上です。
ホテルに戻り、生まれて初めての様式バスを使用し、疲れを癒しました。ダブルベットでは、
すっぽりと体が埋まって、心地よく睡眠をとれました。




市内のエアターミナルから3レーン以上の幅のある高速道路をサンフランシスコ国際空港へ向かい
ました。そこで、何と、 マリリンモンローと結婚していた、野球監督のジョージ・ディマジオと
遭遇したのです。日本では、アメリカを代表するスーパースターのディマジオよりもモンローの方に
記者の関心が集っていたことを意味したのであろう、「日本へ行っても歓迎されないのではないか」
と真面目に質問され、何と答えるべきか困惑したと記録に残っている。




空港で横浜から今まで一緒だったフルブライト留学生一行と別離する。広々とした内部には、
日本人らしき人影もなく、私たちは珍しい外国人として好奇な目でみられ始めた。 そのはず、
1964年まで外国為替法規制によって日本人の海外旅行は全面的に規制されていたため、観光
客もなく、とても珍しかったのであろう。 別れる時には、大学で生徒に講義している先生が、
全く独りぼっちになる不安感から、泣きそうになっていたのがとても印象的でした。私は、
ワシントンDC近くのボルチモア国際空港にTWA最新鋭ジェット機で向かう。

空港には早めに着いたので窓際の良い席がとれた。初めての飛行機旅行、 エンジンの始動と
共にときめき、飛行場の明かりを背に空に 飛び立ったときの感動、大きなサンフランシスコ
の街々が 小さく消えて行く。そして2時間後に現れるロスアンゼルスの光の波で再び、盛り
上がる。七色の宝石を散りばめたような瞬き、 夜光虫のように自動車のライトの流れ、何か
おとぎの国の 夢を見ているような錯覚に陥った。飛行機が大きく旋回した とき、ロスアン
ゼルス空港の建物が目前に迫る。 ここで乗客も入れ替わり満席となった。午後11時ころ離陸、
コヒーなどの飲み物が配られ、やがて室内灯が次々に消され、 枕が渡され、座席を傾け休息に
つく。朝食の合図で 起きたところ、時計は午前2時を指している有様、パンとバター、ベーコン、
ゆで卵、フルーツが配られた。おいしい。 うっすらと明るくなった空一面に広がる雲、雲、
そして日の出、 金色に照らされて、綿を敷き詰めたような、どこまでも広がる 雲の上の世界、
そして雲の切れ間に垣間見る湖、家並み、再び 現れた緑一色の森、畑、散らばった農家の屋敷、
模型の地図そのものの眺めが続く。「座席を戻しベルトを締めてください」とスチワデスが
席を巡って確認する。そして飛行機はバルチモア空港に静かに着陸する。そこには、人気の
ないガランとした待合室があり、寒々とした感じを否めない。

バスターミナルで首都ワシントン行きのバスに乗る。アメリカ 西海岸から来た、美しい若い
女性たちが、嬉しさのあまり、はしゃいで会話している。小雨のぱらつく中を走るバス、
あたかも高原 を走るような車窓風景、30分も走ったであろうか、やがて古風な 家並みが
次々に現れてくる。レンガ造りのものが多く、一見、 ヨーロッパの街との印象だ。ターミナル
ビルから黒人の運転する タクシーに乗り込む。質素なつくりの街並みを抜けたところで、
視野が大きく開ける。 広大な芝生の整備された敷地に、新しいレンガ壁の大病院が 浮かび
上がる。ワシントン・ホスピタル・センターだ。東京 ―横浜―ホノルルーサンフランシスコ、
ロスアンゼルス、ボルチモア、首都ワシントンと、16日間の旅、その終着点が、素晴らしい
姿で目前に迫る。こうした感動のなか、運転手はすべての荷物 を病院ロビーまで運んでくれる。
東京の帝国ホテル新館にも勝るとも劣らぬ美しさ、色とりどりの花に埋もれたロビーホール、
宝石店のような売店、以前から考えていた病院ホテルが、この 場で実現していようとは。
エレベーター内では女性に、私の唐草模様の大きな風呂敷に包まれた荷物を見て、「ポリネ
シアから来たのか」と聞かれた。日本人であるとはとても想像出来る範囲を超えていたようだ。
病院主席に挨拶した後は、係員に6階の医師部屋 (ツインベットルーム)に案内される。




ほぼ新しいデコラの机、座り心地抜群の安楽椅子、大きな鏡、 簡素にまとめ上げた洋服箪笥、
寝心地よいベット、全館冷暖房 の室内。洗面所は高級美容室のようで、全陶器製のバスタブ、
シャワー室には大理石もどきの人造石で張りつめられていた。 日本から持ち込んだソニーの
ラジオからは、素敵な音楽が流れてくる。窓からは貯水池越にワシントンの街並みが、一望の
もとに 見渡せる。

翌日、街に出てみました。どこのガソリンスタンドでも立派な市街図と 道路図を快くくれる
ので地図を買い求める必要はない。歩道が 整備されていても、郊外では歩行者は見当らない。
自動車は 米国では必需品。百貨店に入ってはいってみた。目に つくのは家具売り場の広さだ。
実際の部屋にあるように、家具はきわめて自然に配置されている。需要が多いのだうか、芝刈
機やペンキ売り場を大きくとってあるのもアメリカらしい。特売場は地階にあり、20%から
30%安く買えるが、お客のほぼ全員は 黒人だ。ワイシャツや靴下も、品質は別として、値段は
日本と 大差ない。7月のワシントンは大変暑いのだが、ワイシャツにネクタイ姿でいると、
相手の態度が違う。良い運動靴の 値段は8ドル75セントだが、正札の他に2%の消費税が課せ
られていた。

勤務の最初の2日目に所得税などの説明があった。独身者には不利な税制で、30%近く引かれる
が、結婚していれば、私どもの給与水準では、ほぼ 無税となる。3日目は仕事始め、外国人
医師も少なくなく、カナダ、メキシコ、ペルー、コロンビア、アルゼンチン、 フイリッピン、
台湾、シリア、ユーゴスラヴィア、ドイツ、 フランス、オランダ等、世界いたるところから
集まっている。 このままだと、ドイツ語、フランス語、中国語、スペイン語などを同時に
覚えられそう。ただ、考え方に違いがあり、ドイツ人は靴の 値段を聞くとき、「いくら」では
なく、「この靴を造るのに何日働くか」と聞いた時には驚きました。オランダ人は自らコヒー
を誘っても他の人の分は払わない。ただ、これら人はその国民の考えを反映しているとは限らない。

病院の食堂は一度に400人も利用できるだうか、黄色と 薄緑を基調とした素晴らしい造りで、
ブラインドの架かった広い窓越に芝生の先に、澄んだ水をたたえる貯水池を眺望できる。カフェ
テリアの食材は極めて豊富で、牛肉、鶏肉、豚肉、魚、 ジャガイモ、エンドウ豆、トマト、
キャベツ、株、パセリ、バナナ、 ネーブル、ブドウ、パパイヤ、パイナップル、桃、名前さえ
知らない果物、それに、アイスクリーム、茶、コヒー、ミルク、オレンジジュース、パイン
ジュース等、なんでも食べ放題の食物天国である。 私は殻ごと揚げたシュリンプが大好きで、
毎日、欠かさず食べた。カフェテリアは、午前11時から朝4時半の夜食を含め、 4回も利用
できる。 制服は5着ずつ支給されましたが、裾が長すぎて調整して利用した。ハンケチ、タオルは
週に5枚ずつ配られた。クリニングも 食事と同様、すべて無料。下着類は自動洗濯・乾燥機に
入れておくと、 奇麗に出来上がるので、何の手数もいらない。部屋は黒人の 掃除婦が清掃、
毎日、シーツを取り換えてくれる。

同室の台湾人は日本語を話すことが出来るが、お互いに英語で話すようにした。 宿直の時や、暇な
ときは携帯用無線受話器 (今のスマート フォン?) があるので、自分の部屋で勉強することも出来、
勤務中も病院 敷地内を散歩することが出来た。夜はベットに寝ながら看護婦から患者の病状を把握、
指示することも出来、大変便利だ。 ナースは美人が多くて大変協力的なので、仕事がはかどる。
しかし、重症患者も多く、経験不足も相まって神経をすり減らす。プライベートホスピタル故、
主治医を持つ金持ちの患者は人種差別なのか、非協力的なこともある。当時、南部州ではトイレ
などは白人、黒人用と区別されていた。今までは全く考慮していなかった経済的、法律的背景を常時
考えながら薬を処方したり、患者との言葉にも注意せねばならない点が、 負担といえば負担となる。

 
8mm film : Washington Hospital Center, DC 1960-1961
コダックが発売した極めて初期段階のカラー8ミリフイルムを使用、
撮影技術は未熟


このワシントン・ホスピタル・センターで1年間診療し、その後はシカゴの名門、マイケル・
リーゼ・メデイカル・センター病院 に移ったが、私の人生で、忘れることの出来ない、初めて
の 本格的病院体験であった。


宮本順伯 1960年7月 20歳代後半記
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Daily 1960-1963
Washington Hospital Center US Interstate Highway 1960-  Cherry blossom festivals Indianapolis Weekend travels
East Coast trip New York express train  New York auto-trip Mackinac Bridge Chicago life Chicago friends
Florida travel 1962 35,000km great trips throughout US and Canada Summer camp Denali National Park


Daily 1972-1974
London University Hospital  Moosonee London life and Florida trip 1974 Return trip to Tokyo

Diary



2023:
90 年の人生を振り返った時、懐かしく思い出されるのは若かりし頃の思い出である。
一見、常識を越えた発想があり、それを 実行するだけの活力があった。特に20歳代は、
見るものすべての感受性が豊かで積極的、高年の世代でのそれとは、とても比較できない。
国内で医師として毎日を、診療に明け暮れする生活を繰り返し、老後に引退するだけの
人生が、満足できるものかを問われた時、答えは見つからない。人生は一度だけのもの。
悔いのない一生でありたい。



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